兼ねてから、声に出してみたかったことがあります。それは宗教について。
まさに今、事件が生じたので取り上げられている新(興)宗教がありますが、1995年阪神淡路大震災の年に起こった事件のときもその類のものがありましたね。
2020年の暮れ。あるホテルのエクスカーションメニューで、仏師の仕事場に案内してもらう機会をお願いしたのです。
若い仏師は修行と言いつつ、仏像を通して、また仏像に配された装飾を取り上げて、幅広い宗教情報を教えてくれたのです。それはそれは、理に適う、人の正義と言いますか道理と言いますか。
さぞかし信仰心が厚いのだろうと思い込みそんな話を投げかけると、「我々仏師は無心に彫ることが仕事。余計な信心を入れてはいけないのです」とにっこり。目から鱗。
私たち多くの日本人は宗教的情念は持ちつつ、何かこうすっきり納得がいくような説明や活動ができず、オープンに話さないでいるように思えます。大義名分がないというか。
冒頭の新(興)宗教などは、えてして大きな社会変動があるときにこそ発現しています。言葉強く柔らかく、到底理解されないためか、形を変え素性を隠して私たちのそばに現れます。変動激しく、苦しいときには拠り所に感じてしまうのでしょうか。
決して、自分は信心がないわけでもないけれど。一義的に神仏などを濃厚に排他的に、信じているわけでもない。
その背景には、差別的な視線、スピードの速い社会、懐深い信用をさらけることが身の危険に通じるシステム、そんなこんなでオープンに話すこともない。
学問として学んだこともなければ、信心深く傾倒したこともないので、むやみに他人の信仰心に触れることはタブーな空気。
いつか、BIOMEで宗教について取り上げてみたいとは思っているのです。
今開催中の個展、小野理恵さんの作品には何かこう自然には敵わないなと感じさせられます。台風気の雨音を聞きながら、木や草花、太陽を想う心は、宗教への思いと遠くもない世界だなと思ったりしたからなのです。
※小野理恵さんの作品と、本文宗教とは全く関係ございません。