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曖昧な評価なのは。


夏休みのひととき、友人の姪御さんが吹奏楽コンクールに出場するというので、鑑賞の機会をいただきました。自分の中学時代には吹奏楽部がなく、当時はその世界に触れることもありませんでした。けれど、他校にはすでに部活動として存在しており、いま目の前で子どもたちが堂々と管楽器や打楽器を扱う姿を見ていると、改めてその伝統の積み重ねを感じ、頼もしさと羨ましさが入り混じった思いに包まれました。


聴きながら、自分なりに「この学校はこうだろうか」と演奏を評してみるのも楽しい時間でした。そしていよいよ結果発表──その内容はネットに一斉に公開されました。ところが表示されていたのは「金賞・銀賞・銅賞」のみで、各校に必ずいずれかの評価が与えられているのです。順位は示されず、序列の見えない結果に、不思議さを覚えました。


調べてみると、この中学生の吹奏楽コンクールは「上位大会への代表校を選出すること」が本来の目的であり、順位そのものは公表されないとのこと。賞の付与とは別に、代表推薦の団体も選ばれる仕組みがあるため、その方法や結果の開示のされ方は地域や大会ごとに異なるのだそうです。なるほどと納得しながらも、どこか「曖昧さの影」を拭いきれませんでした。

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さらに胸を突かれたのは、「金賞を受賞しても代表に選ばれなかった団体」が“ダメ金”と呼ばれてしまう現実でした。その言葉を、時には生徒自身が相手校や自校について口にすることもあるのだとか。晴れ舞台の努力が、そんな呼び名で語られてしまうことに言葉を失いました。


思えば、子どもたちの活動はあくまで学びの過程の一端にすぎません。日々の練習の中での発見や喜びこそが本質なのに、団体戦としての勝敗の枠に収められると、時に表現が荒んでしまう。そこに教育の難しさを感じます。


芸術とは本来、どの分野でも「迷い」や「歪み」を孕みながら成熟していくものです。絵画でも、陶芸でも、あるいは書でも、未完や失敗の痕跡が後世には貴重な記録となり、私たちに考える機会を与えてくれます。そうした営みこそが、人生の日常に敷かれた“当たり前の風景”だろうに。


それにしても──暑い夏の夕暮れ、汗で濡れた制服姿で、無邪気に帰路につく子どもたちの背中を眺めながら、ただ胸を熱くするのでした。


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